DOUBLE ANNUAL 2026「遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?」プレビュー展(山形)レビュー/岡部信幸(山形美術館副館長兼学芸課長)
レポート
#DOUBLE ANNUAL#大学院#工芸デザイン#洋画上記写真:草彅裕
2025年12月、任你博の本館7Fのギャラリー?THE TOPで、2026年2月に東京?国立新美術館で開催される学生選抜展「DOUBLE ANNUAL 2026」のプレビュー展が行われた。
DOUBLE ANNUAL 2026プレビュー展(山形)
「遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?」の様子
会期:2025年12月8日(月)~12月19日(金) 会場:任你博 本館7F THE TOP
「DOUBLE ANNUAL」とは、任你博と京都芸術大学の全学部生?大学院生を対象に、第一線で活躍するキュレーターを招聘し、キュレーターが提示したテーマに応答する形で、学生を募集?選抜し、関係者との議論や制作指導を受けながら企画?制作?展示(展覧会)をつくりあげる実践的な芸術教育プログラムである。2017年度から京都芸術大学で開始した「KUA ANNUAL」に2022年度から任你博の学生も加えられ、「DOUBLE ANNUAL」と改称。会場を東京都美術館から国立新美術館に移して開催されている。今年度のディレクターは前回同様、任你博を慶野結香、京都芸術大学を堤拓也、監修を片岡真実が担当している。
本年度は計64組73名の応募があり、書類選考と面接を経て、両校から11組16名の学生が選出された。また7名の学生が展覧会の運営?広報?記録を担うアート?プラクティショナーとして加わり、7月の東京での合同合宿、その後レビューやミーティングが重ねられた。各学生の作品制作と展示構想を、国立新美術館における展覧会に位置づけるとともに、鑑賞者との関係性をも検討する最終段階となるのが12月に各大学で開催されるプレビュー展である。

プレビュー展ならびに本展覧会のタイトルは「遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?」。本年の募集テーマでもある。会場入り口に掲げられた挨拶パネルに、ディレクター?慶野結香、堤拓也による本展の趣旨が掲げられている。要約すると次のようになるだろう。
ベルギー?フランデレン地方のことわざ「Wie verre reizen doet, kan veel verhalen(遠くへ旅する者は多くの物語を語る)」を主題とし、その命題を問いとして提示する。16–17世紀以降、同地域では貿易や航海を通じて異文化と接触し、旅を学びと語りの源と捉える価値観が形成された。一方で、このことわざを英訳しようとすると、「Long Ways, Long Lies(長い旅には長い嘘がつきもの)」という皮肉な表現に至るとした上で、この「旅」と「語り」のあいだに生まれる真実と誇張のズレや戯れの関係─語られる物語の真実と虚構のあわい─を、アートという創造的活動の本質的構造と重ね合わせている。これらを踏まえ、山形と京都でそれぞれの出自や移動の経験をもとに、自身の身体を媒介として現代社会を観察し関与しようと試みている学生に、彼らの思考と実践を可視化?交流させる場として機能することが本展の目的とされている。
プレビュー展は、「本展に向けて取り組む作品の初期段階を公開し、外部からのフィードバックを得るための実験的な場」(挨拶パネル)という位置づけであることから、展示物はまだ構想段階のものである。ここでは展示作品の個々の批評というよりも、キュレーターが投げかけたテーマに、それぞれの学生がどのように応答し作品化を試みようとしているのか、という点について、展示された作品とそこに添えられたコメントから考えた事柄を、誤読や飛躍を恐れずに記してみたい。
両校から選出された11組16名の学生のうち、任你博から参加するのは、川口源太、木村晃子、中島慎之助、FLO(佐々木陽和+佐藤創瑠)、飛聲 FEISHO(ジョ クンイツ+岩田奈海)の5組7名。アート?プラクティショナーとして古山果歩(文化財保存修復学科2年)、中土井陽太(企画構想学科1年)が加わっている。7階の回廊状のギャラリー空間を反時計回りに見ていこう。
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中島慎之助《生命の軌跡》
中島慎之助《生命の軌跡》(2025)
中島慎之助(大学院総合芸術研究領域修士1年)は、昆虫の造形美に強い関心を持ち、観察と生息環境に基づいた立体作品を制作している。本展では、昨秋の台風に乗って東北に飛来した「ツヤアオカメムシ」をモチーフにした作品を展示している。
胴体から切り離された3本の脚が白い台座の上に足先を上に固定されている。シルバー、ブロンズ、ゴールドの各色と黒のまだら紋様に塗られたメタリックな表面が目に留まる。体長が2センチにも満たないツヤアオカメムシの脚が、2メートルほどに拡大されていることも相まって、不快害虫とされる虫の持つ紋様の美しさとモノとしての物質性(存在感)が前景化する。
コメントパネルには次のような記述がある。
「回転する脚部や傾いた胴体は、台風の渦に巻き込まれ、不時着したような姿を想起させる。とりわけ回転する脚部は、台風の螺旋運動から着想を得ている。/中島は本作を通じて、ツヤアオカメムシの造形的魅力を伝えると共に、台風という自然災害がもたらす偶発的な移動や被害を、主体的に考える視点を促したいと語る。」
回転運動には、台風の渦状の回転と、本来は気温や季節、餌の有無で移動するカメムシが台風による想定外の移動による生息環境の変化にもかかわらず気候変動(温暖化)の影響で大量発生したものの、冬を越せずに死滅する(回遊死滅)事象とが反映されているといえる。回転運動が視覚的な錯覚を生みだす作品として、ナウム?ガボの《Kinetic Construction(Standing Wave)》(1920)やマルセル?デュシャンの《Rotorelief》(1935)をあげることができる。
またツヤアオカメムシにとどまらず、「偶発的な移動」を強いた台風それ自体も、地球の自転や気圧や地形の影響を受けながら、境界を他動的に動くトラベラーと捉えることも可能だ。私が訪れた時点では胴体は展示されず、また回転する脚を見ることはできなかった。今後、胴体を含めた作品の配置や回転軸やその方法など、制作意図の展示空間への翻訳に検討を加えることで、たとえば、回転による不在のものの現前が、変容や永劫回帰のメタファーとして昆虫の動きを連想させると同時に、メタリックな輝きが強ければそれだけ表面的な美しさの裏にある抵抗や死への考察を仄めかすことにつながるだろう。
中島慎之助《生命の軌跡》(2025)
FLO《残響のかたち》
FLO《残響のかたち》(2025)
FLOは佐々木陽和(工芸デザイン学科3年)と佐藤創瑠(美術科洋画コース3年)によって2024年12月に発足したアーティストコレクティブである。メンバー間の協働や地域コミュニティとの連携を通して多様なアートプロジェクトを展開している。近年は地域の人々の語りを通して真実と虚構の狭間にある「個人の歴史」に焦点をあて、事実ではなく語ること自体の意味を探る活動を行っている。本展の《残響のかたち》もその延長にある真実性と信頼をめぐる美術的実践といえる。台座の上に据えられた意匠の異なる壺に、たとえば「線の祈り 1分4秒」、「祠のそばで 0分58秒」などのキャプションが添えられている。近づくと壺の中に仕込まれたスピーカーから人の語りが響いてくる。その物語は、交流のある地域の人が語る物語と、AIが生成した物語とが混在している。FLOは、その語りという「声」を空間化するための媒介として、文字(テキスト)ではなく、古代から物や時間の器として用いられてきた「壺」を持ち込む。コメントパネルには次のような記述がある。
「FLOは壺を時代を超えて解釈のゆらぎを含んだ曖味な物語の容れ物として位置づける。その内部では、「誰かが語った物語」あるいは「AIが生成した物語」がスピーカーを介して語られる。鑑賞者は、展示という公的な場に置かれた壺が自ずと帯びる信頼性と、その内に潜む不確かさのあいだに揺さぶられる。真実と虚構、記憶と忘却、個人と他者のあいだに、広がる曖昧な領域を見つめる。」
鑑賞者は美術館の空間の中で、個人なのかAIによるものなのかが曖昧な語りに対峙することになる。美術館(公共空間)における「展示」という行為によって帯びる権威と信頼を壺内部の物語がその制度的信頼を脱構築する点に、現代的な逆照射が見られるといえよう。また過去のデータの集合的再編成として生成されるAIによる語りは、匿名的である点で、神話的な口承、あるいは共同体的な語り直しの形式と親和的であるともいえる。その声の真実/虚構の判断は、聴き手=鑑賞者に委ねられているのである。
今後、空間に存在する単なる壺ではなく、真実と虚構の区別を宙吊りにする「信頼の容れ物」としての壺、あるいは語る(行為する)壺や認識する壺などのありよう─たとえばAIで壺も作成し、AIの語りと対応させる/同じ壺で内容のみを変える/制度とテクノロジーを内包した壺の形、など─を吟味することで、「誰が語るか」ではなく「どの制度が信頼を生成するのか」という問いがより深まる可能性を感じる。
FLO《残響のかたち》(2025)
川口源太《Field Poppy Trail》
川口源太《Field Poppy Trail》(2025)
川口源太(大学院複合芸術研究領域修士1年)は、公共空間に自生する植物をテーマに、人と公共環境の関係について研究?制作を行っている。本展では、ヨーロッパ原産の一年草で、日本の路傍や畑地に広がる帰化植物であるナガミヒナゲシを中心としたフィールドワーク的手法を通じて、その形態的特徴と生態的適応を観察し、都市環境の中で人と植物が共存するあり方を可視化し、美術表現への展開可能性を考察するものである。
標本採集や写真撮影、植生の環境要因、分布マッピングのほか、スケッチ記録を通じて花形?葉形?果実構造などの形態的特徴を精査したスケッチなどが壁面や展示台上に展示され、個体群の生育環境や分布パターンなどが整理されたデータとして提示されている。
また、繁茂力や有毒性の懸念から駆除の対象となっているナガミヒナゲシを、日本の新しい風景として他の植物との共生を訴える役所が作成したようなチラシが、掲示板に画鋲やマグネットで留められている。
川口源太《Field Poppy Trail》(2025)
鑑賞者の目をひくのが、電柱の根元や外構のフェンス沿い、そして砂利敷きの駐車場でオレンジ色の可憐な花を咲かせるナガミヒナゲシの箱庭状の模型である。なんでもない風景をスナップショットのように切り取ることで、写真とは異なる、今ここに現前する作品へと変換する試みともいえる。
コメントパネルには次のような記述がある。
「箱状の模型は、ナガミヒナゲシが海外の輸入作物貨物に混入して日本に定着した経緯から貨物の梱包木箱を模している。さらに、リサーチ資料を組み合わせ、植物をめぐる社会的な眼差しにスポットライトを照らしていく。 鑑賞者は、実際に野に咲くナガミヒナゲシを見た時に、この植物にまつわる諸問題を見つめ直すだろう。」
生態学的調査をもとに、ナガミヒナゲシの形態的特徴や生態的ふるまいを造形へと展開する川口の試み─観察?記録?再構成というプロセスを通じた自然表象の探求─は、帰化植物の存在を都市の異物/共生の象徴として読み替え、さらに現代社会の移ろいやすさを映しだすといえる。
木村晃子《ツバメを追って》
木村晃子《ツバメを追って》(2025)
木村晃子(大学院複合芸術研究領域修士2年)は、これまで《GOLDEN SUNFLOWER》のような、不法投棄された尿入りペットボトル(「黄金のペットボトル」)を採取し、アートに転化するソーシャリー?エンゲイジド?アート的な手法で制作を行っている。本展の《ツバメを追って》では、8分49秒の映像のプロジェクションとその内容に関連する小さな机と椅子が置かれていた。
コメントパネルには次のような記述がある。
「彼女は、故郷とは地理的な場所を指すことに加え、個人の記憶や経験の蓄積によって形成される内面的な領域であると考える。このように、故郷を可変的なものと考える立場から、渡り鳥である燕に関心を寄せた。人が内的な故郷を作り出していくように、燕もまた移動先で巣を作る点に、燕と人間の共通点を見出したのである。それと同時に、燕が巣を作る生態的必然性と人間が燕の巣で産業を形成しているという構造的な相違点が存在している。」
ツバメが移動先に巣を築く行為という自己の存続をめぐる生態的必然性と、その巣が人間社会において商品として流通する点における自然と人間を結ぶ倫理的?経済的構造の非対称性が、ベトナム?ニャチャンの燕の巣工場の取材などの旅の記録によって描写することが試みられている。プレビュー展での映像は、未だ映像インスタレーションの素材段階のように思われた。今後、取材先で撮影した映像素材のストーリーに合わせた編集に加え、観衆と意図を共有するための明確なナラティブの構築、さらに視覚?聴覚の即時性を活かした映像それ自体の特質を検討することによって、映像に「個人の記憶や経験の蓄積によって形成される内面的な領域を」帯びさせることをまずは望みたい。さらに映像のストーリーと融和/対立するオブジェクトを映像の延長線上の空間に配置─たとえば、コメントに述べられている、燕の巣が作られる軒下の環境の再現展示─することによって、「自然と人間の共生の場を象徴的に提示」されることを期待したい。
木村晃子《ツバメを追って》(2025)
飛聲《A SHARED WALL》
飛聲《A SHARED WALL》(2025)
飛聲は、中国からの留学生であるジョ クンイツ(美術科洋画コース3年)と岩田奈海(同)によるユニットである。プレビュー展の中で圧倒的な存在感を示す作品が《A SHARED WALL》である。単管で組み上げられ、前に傾けられたボルダリングのホールドが散りばめられた壁は、異なる文化的背景をもつ二人のアーティストによる「身体の運動と筆の軌跡が交錯する場」(「関係性の壁」)そのものである。
コメントパネルには次のような記述がある。
「壁を介して重なっていく二人の物語は、異なる都市?異なる時間を経て出会い、やがてひとつの旅となっていく。そこでは、過去の経験や感情、記憶の断片が、身体の動きや描線を通じて相互に響き合い、言葉を超えた対話として立ち上がる。登るという身体的な挑戦と、描くという表現的な営みを重ね合わせることで、他者と空間を共有しながら、関係そのものを構築していく。この壁は、二つの異なる存在がそれぞれの体験を経て交わり、瞬間の関係性を示すアクションである。」
ここでの身体は、固有の歴史的/文化的な記憶が刻印された装置とみなされている。登攀と描画という二つの行為の重なりによる制作は、個別的表現から動的?相互作用的なプロセス─「関係そのものの生成」を主題化する実践─への転換の試みといえる。この実践は、ニコラ?ブリオーが提唱した「リレーショナル?アート」─アートを社会的関係性や人間相互のやり取りの中で生成する過程として捉える美学的枠組み─と連続するものである。ブリオーはまた、モダニズムとポストモダニズムがともに「根(ラディクス)」への執着─すなわち、出自?起点?純粋な文化的基盤―を前提にしていたのに対して、環境とともに変化する「ラディカント」という概念を提出している(ニコラ?ブリオー(武田宙也訳)『ラディカント グローバリゼーションの美学に向けて』フィルムアート社、2022)。翻訳者の武田宙也によれば、ラディカントは、移動の痕跡を強調し、また主体とそれが横断する表面との対話的/相互主体的な交渉/翻訳を強調するものである。ある状況や場に一時的な仕方で身を置く一種の仮設的なアイデンティティとしての主体は、これまでの移動の痕跡を現地の言葉に翻訳することと、自我を環境に翻訳することという二つの意味での翻訳行為を行う。仮設的なアイデンティティ間の果てしない交渉/翻訳の過程としてあらわれるラディカントな主体(アーティスト)を、さまざまな記号のなかに道筋をつくりだす「記号航海士」として、多種多様な出自をもつ記号が漂う海の上を、自分なりの道筋を見いだしながら航行する旅人に喩えている。
飛聲《A SHARED WALL》(2025)
《A SHARED WALL》とともに、ネットに貼られた自画像を主なモチーフとする多数の交換ドローイングや、床に散らされた書と肖像画の重ね書きは、自己は孤立的に形成されるのではなく、他者との出会い?摩擦?鏡像化によって初めて輪郭を得るという洞察がうかがえる。
飛聲の作品は、二人の各々の航行の経路―接触?応答?誤読?再翻訳―の共同的な制作プロセスにおいて生成し、鑑賞者にもその共存と共鳴を喚起する。
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結びに代えて
これまで展示された作品について思いつくままに述べてきたが、ギャラリーを巡って感じたことは、いずれの作家も身近な関心や体験をもとに本展作品の構想を深める表現を試みていることであった。
ここで「遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?」に立ちかえると、大航海時代における、旅先での他者との関わりは、旅人の自己認識の変容をもたらすとともに、そのテクストやイメージが、ヨーロッパ人の知や眼差しを組み替え、共同体を破壊する近代の知をもたらす要因といえるだろう。スペインの哲学者?ハビエル?ルベルト?デ?ベントス(1939-2023)は、それまでの知の体系を象徴するともいえる古い格言「すべての道はローマに通ず」─目標達成への多様なアプローチを肯定し、最終的な到達点や普遍的な真理の存在を示唆する言葉─を再解釈し、次のような芸術や哲学のあり方を提唱した(ハビエル?ルベルト?デ?ベントス「どのみちローマに至る」、磯崎新+浅田彰(編集)『Anyway』(NTT出版、1995)、13-22頁。)。デ?ベントスは「ローマ」とは単なる目的地ではなく、私たちが世界を理解しようとする際の「到達点の構造」そのものを象徴しているとし、どんな方法を通じても私たちは必ず何かに到達するが、その到達の仕方によって、見える世界の形そのものが異なるとする。芸術も哲学も「道を選ぶ行為」であり、ある手法で対象に迫ることは、同時にその対象のあり方をあらかじめ構築してしまう行為でもある。そこでは方法が感性を規定し、感性が真理を形づくることになり、芸術作品の解釈/判断もまたこの構造に従う。そこでは私たちは作品を“解釈する”のではなく、解釈の方法を通して作品を“生成している”のである。その上で、デ?ベントスは「メソドラトリー(methodolatry)=方法崇拝」という言葉で、近代以降の学問や芸術批評の傾向を批判する─たとえば、「より多く知ること」「より厳密に分析すること」が必ずしも深い理解を保証するとは限らない。知識と方法の拡張は、同時に感受性の鈍化をもたらすことがある。芸術の解釈/判断においても、技術的知識や理論的整合性を重視すれば、作品のもつ生々しい息づかいを見失う危険がある─。デ?ベントスは、どのみちローマに至るが、そのローマは、歩いた道の数だけ存在する。芸術も哲学も、普遍の姿を追うのではなく、無数の「到達のかたち」を編みだす行為である。つまり解釈/判断とは、真理を判定するのではなく、「道を選びながら、世界を再構築していく過程」そのものにほかならないとする。
本展では、アーティストは社会の外側から鋭く批判を投げかける存在ではなく、社会の内部から構造を変容させる実践が期待されている。創造とは破壊ではなく再構築であり、社会の断層に生まれる想像力を通じて、アートは公共的な領域を更新する。つまり芸術とは他者との共生を促す社会的行為であることが求められているといえる。
2月の本展に向けて、現代アートの文脈を踏まえつつ、展示によって何を伝え、それを見る人がどう捉えるのかを念頭に置いた最終の調整が進められている頃だろう。それは、「形式、型、機能、イメージ、デザイン、ないしコンセプトをもって、私たちが計画を始める時点、あるいは計画に入る地点が、私たちが辿り着くことになる場所をなんらかのかたちで先取りして定義」するのではなく、無数の「到達のかたち」を編みだす行為を重ね、世界を再構築していく過程そのもの」とすること(デ?ベントス)。その作品(道)がどこへ向かおうとしているのか? そんなありようを国立新美術館の本展で見ることを楽しみにしたい。
(文:岡部信幸、写真:草彅裕)
Information
DOUBLE ANNUAL2026
「遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?」
会期:2025年2月21日(土)~3月1日(日)10:00~18:00 入場無料
※休館日2月24日(火) 、最終日の観覧締切時間は17:30会場:国立新美術館3F 展示室3A(東京都港区六本木7丁目22-2)
主催:京都芸術大学
協力:任你博
岡部信幸(おかべ?のぶゆき)
山形美術館副館長兼学芸課長。齋藤茂吉記念館を経て、1993年より山形美術館勤務。細江英公、小松均、土門拳、鬼海弘雄、小池隆英、太田三郎など、山形ゆかりの作家をはじめ、近年は「カンヴァスの同伴者たち 高橋龍太郎コレクション」(2024)、「三瀬夏之介 ゆらぐ絵画 潜行、氾濫、上昇、斜行、迂回」(2024)、「京都大原に生きた画仙人 小松均展─自然をまなざす」(2025)を企画。1999年より任你博の非常勤講師のほか、山形大学、放送大学で非常勤講師を務める。
関連動画:
【任你博】DOUBLE ANNUAL 2026 プレビュー展(山形)
【任你博】2026.01.09「週刊 TUAD NEWS」
任你博 広報担当
TEL:023-627-2246(内線 2246)
E-mail:public@aga.tuad.ac.jp
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